拓大紅陵高校出身のプロ野球選手一覧表

加藤貴之

投手 拓大紅陵高-新日鉄住金かずさマジック-日本ハム 2015年 ドラフト2位

千葉県南房総市出身。左投左打。拓大紅陵高では2年からベンチ入りを果たすと2年夏は主力投手として活躍。決勝戦で八千代東戦に先発するも3回途中4失点で降板、チームも敗退した。3年夏は4回戦で山下斐紹、福田将儀擁する習志野と対戦して逆転負け、甲子園出場はならなかった。

年度球団登板勝利敗戦セーブホールド投球回奪三振防御率
2016日本ハム30730191.1643.45
2017216600120.0993.53
2018265803113.1824.53
201926570192.0703.52
202028420158.0513.26
2021256700150.01023.42
2022228701147.2982.01
2023
通算**年

大木貴将

内野手 拓大紅陵高-日本大中退-香川オリーブガイナーズ-ロッテ 2015年 育成ドラフト1位

千葉県君津市出身。右投左打。拓大紅陵高では3年夏の千葉県大会での準優勝が最高成績で、全国大会出場経験は無い。1歳下の後輩に加藤貴之がいる。高校卒業後、日本大学に進学し硬式野球部に入部したが、2年時に当時の監督と折り合わなかったことを理由に退部し大学も中退した。その後は香川オリーブガイナーズを経てロッテへ入団。

年度球団試合打数安打本塁打打点盗塁三振打率
2016ロッテ
201791320012.154
20181000000
2019
通算**年101320012.154

手嶌智

投手 拓大紅陵高-新日本石油-ロッテ 2004年 ドラフト自由枠

千葉県富津市出身。2004年、自由獲得枠で千葉ロッテマリーンズに入団。最速140km/h後半のストレートに加え、スライダー・チェンジアップ・フォークなどを投げる。2005年はファームで10勝を上げ、最多勝を獲得したが、制球や変化球に難があり、6月22日に一軍で初登板・初先発した際も甘く入ったチェンジアップを小笠原道大にレフトスタンドに運ばれるなどでノックアウトされている。以後は故障の影響などで二軍でも結果を残せない状態が続いた。制球が不安定な部分は解消されず、2009年10月1日、戦力外通告を受け引退。2010年度から球団スタッフになる。

年度球団登板勝利敗戦セーブホールド投球回奪三振防御率
2005ロッテ101003.0512.00
2006
2007
2008
2009
通算5年101003.0512.00

高橋憲幸

投手 拓大紅陵高-日本石油-日本ハム 1996年 ドラフト5位

群馬県高崎市出身。拓大紅陵高校時代、1988年の第70回全国高等学校野球選手権大会に出場。その後日本石油に入社、同社硬式野球部では1995年の第66回都市対抗野球大会制覇に貢献して橋戸賞を受賞。1996年のドラフト5位で日本ハムに入団。1年目の1997年から中継ぎ投手として活躍し、47試合に登板。2001年には59試合に登板。同年4月26日の対ダイエー戦(東京ドーム)ではトニー・ミッチェルに死球を与え乱闘騒ぎになり、チームメイトの金子誠が右フックを頬に受けた。その後も2002年シーズンを除いては中継ぎとして試合登板を重ね、渋い活躍を見せていたが、2004年4月には買い物の途中に自転車で転倒、左ほお骨骨折と左肩鎖骨脱臼の重傷を負う。それ以降は1軍での登板機会がなく、2005年に戦力外通告を受け任意引退、監督の落合博満(日本ハムの同僚)との縁から2006年は中日ドラゴンズの打撃投手を務めた。2007年からは古巣である新日本石油ENEOS・JX-ENEOSの投手コーチを務め、監督の大久保秀昭と共にチームの強化に心血を注き、田澤純一・三上朋也などを育て上げた。2014年年11月9日に日本ハムの2軍投手コーチに就任することが発表された。

年度球団登板勝利敗戦セーブホールド投球回奪三振防御率
1997日本ハム4722035.2254.79
19983300035.2224.04
19992800017.096.35
20003141142.2433.16
20015904046.0384.11
200290004.124.15
20035533050.0273.06
2004100008.2113.12
2005
通算9年2729101240.01773.94

立川隆史

外野手 拓大紅陵高-ロッテ 1993年 ドラフト2位

千葉県千葉市出身。地元の名門である拓大紅陵高校に入学し、1992年の夏の甲子園大会にベンチ入り唯一の2年生および5番右翼手として出場。準々決勝で9回に逆転2点本塁打を放つなど活躍。その年同校は準優勝した。立川は高校野球時代を通じて通算32本塁打を記録。この活躍が評価されドラフト2位でロッテマリーンズに入団する。

年度球団試合打数安打本塁打打点盗塁三振打率
1994ロッテ
1995
1996142950006.172
19977625269720669.274
1998811533326344.216
1999142230016.136
20008116039320035.244
200135922324126.250
20028926964630350.238
20039429270731372.240
2004153230109.094
阪神313561508.171
2005
通算12年53013363152811717325.236

多田昌弘

投手 拓大紅陵高-広島 1992年 ドラフト6位

千葉県市原市出身。拓大紅陵高のセレクションで不合格となるが一般入試に合格。1年後輩に立川隆史がいた。1992年、3年の第74回全国高等学校野球選手権大会にはエース富樫、杉本、紺野、多田の4人で投手陣を組み準優勝。初戦から準決勝まで全て別の投手が勝ち投手になるという史上初の快挙を記録した。投手陣の中でスカウトの評価が最も高かったのは多田だった。卒業後は就職して野球を続けるつもりだったが、同年のドラフト会議で広島東洋カープから6位指名されプロ入りした。1年目の1993年は左肘を故障したが二軍で13試合に登板し防御率3.48、2年目は11試合に登板し初勝利も挙げるがオフに戦力外通告を受ける。

年度球団登板勝利敗戦セーブホールド投球回奪三振防御率
1993広島
1994
通算2年一軍公式戦出場なし

和田孝志

投手 拓大紅陵高-東洋大-ロッテ 1992年 ドラフト3位

埼玉県春日部市出身。拓大紅陵高から東洋大に進学。東都大学リーグでは2年春にリーグ10人目のノーヒットノーランを達成する。リーグ通算49試合登板、14勝15敗、防御率2.68、172奪三振。1993年、ドラフト3位で千葉ロッテマリーンズに入団。1995年は1A・バイセイリア・オークスに野球留学した。2002年に現役引退。引退後はロッテのチームスタッフとしてスコアラー、打撃投手、査定を担当。2005年の日本一を経験し同年退団、飲食業の道へ。石井浩郎が社長を務めるH・Iグループを経て、渋谷宮益坂に和食ダイニング「美醤(びしょう)」を2007年6月開業。また、ハタケヤマのスーパーバイザーも勤める。2009年にはロッテの二軍投手コーチ補佐を務めた。

年度球団登板勝利敗戦セーブホールド投球回奪三振防御率
1993ロッテ
1994
1995
199640005.170.00
1997
1998
199960009.050.00
20002111050.0353.60
20013812068.0424.63
200230005.021.80
通算10年72230137.1913.67

小林敦司

投手 拓大紅陵高-広島 1990年 ドラフト5位

東京都北区出身。拓大紅陵高校から1990年のドラフト5位で広島東洋カープに入団。入団当初は本人によればストレートは速いとは言えず、コントロールも悪かった。3年目の1993年にサイドスローに転向した。サイドスロー転向後はスライダーの切れが良くなり制球も安定する。入団以来4年間、1軍登板の機会はなかったが、1995年に1軍昇格してようやくプロ初勝利を記録、主に中継ぎ投手として起用された。1996年には右膝を痛め靭帯の再建手術を行った。復帰後の1999年には自己最多の30試合に登板して防御率2点台前半の好成績を残し、同姓の小林幹英との継投パターンは「あつかんリレー」と呼ばれた。これ以降は伸び悩み登板試合は激減し、成績も下降線を辿った。2000年11月に広島から戦力外通告を受け、千葉ロッテマリーンズにテスト入団するが6試合の登板にとどまり、わずか1年で戦力外通告。2001年11月に28歳の若さで現役を引退。

年度球団登板勝利敗戦セーブホールド投球回奪三振防御率
1991広島
1992
1993
1994
19951610025.1173.91
199630102.117.71
1997
1998
19993000028.2142.20
200040009.01010.00
2001ロッテ60006.167.11
通算11年5911071.2484.40

知野公昭

投手 拓大紅陵高-大洋 1989年 ドラフト6位

千葉県出身。拓殖大学紅陵高等学校から1989年、ドラフト6位で横浜大洋ホエールズに入団。高校3年生の夏の高校野球千葉県予選で決勝まで進出させた長身右腕。高校3年間で47試合に登板し、28勝6敗、防御率0.84という記録を残す。140キロ前半のストレートが武器だったが、チャンスに恵まれず、サイドスロー転向などに挑戦したが一軍昇格できず引退した。引退後は保険会社の営業をしている。

年度球団登板勝利敗戦セーブホールド投球回奪三振防御率
1990横浜
1991
1992
1993
1994
通算5年一軍公式戦出場なし

小川博文

内野手 拓大紅陵高-プリンスホテル-オリックス 1988年 ドラフト2位

千葉県館山市出身。中学生までは館山市で軟式野球をしており、当時の顧問の勧めで創立5年目の拓大紅陵高に1982年に進学した。2年夏にはレギュラーの一番打者となり、秋からは三番打者を務めるようになった。同年秋の関東大会では大島公一らを擁する法政二高と準々決勝で対戦し、サヨナラタイムリーを放ってベスト4に進み同校初の全国大会となる選抜大会への出場を決めている。春の選抜大会では初戦の対智辯学園戦で3ランホームランを放つなど3安打4打点の活躍を見せ、二回戦では再び法政二高を破った。準々決勝ではKKコンビを擁するPL学園と対戦して桑田真澄に3打数無安打2三振と抑えられ、チームも完封負けを喫している。3年夏の選手権大会にも出場し、大会前には優勝候補の一角に挙げられた。しかし初戦の対鹿児島商工戦で増永祐一に4打数無安打に抑えられ、5対0で敗れている。高校卒業後は社会人野球へ進む事を決断。3年目の1987年には都市対抗と日本選手権でともに2本塁打を放つなど三番打者として活躍し、初の社会人ベストナインに二塁手として選出された。翌1988年にはソウルオリンピック日本代表に同僚の石井丈裕や中島輝士とともに選出され、二塁手として全試合に先発出場している。予選リーグでは七番、準決勝と決勝では六番打者を務め、チーム3位の打率.368と同1位の2盗塁の成績を残し、堅守と広角打法でチームを支えた。また、決勝戦ではジム・アボットから先制点に繋がる二塁打を放っている。社会人の4年間で通算打率.430、50本塁打を記録し、同年のドラフト会議でオリックス・ブレーブスから2位で指名を受けて入団。契約金、年俸はそれぞれ5,800万円、720万円(推定)。

年度球団試合打数安打本塁打打点盗塁三振打率
1989オリックス11534485532744.247
19901253851005412284.260
1991130495135548857.273
1992103344100338354.291
1993125414106836872.256
1994126459139453270.303
1995120379103638066.272
199611031390938155.288
1997120372871138473.234
199810229069727064.238
199911232188637266.274
200010124163545366.261
2001横浜13142011115653100.264
200211935292744176.261
20038114738417026.259
2004
通算16年17205276140610059764973.266

佐藤幸彦

内野手 拓大紅陵高-ロッテ 1986年 ドラフト4位

千葉県千葉市出身。小学生時代はテニスの選手であり、海外へテニス留学をした経験を持つ。拓大紅陵高では飯田哲也と同級生。1986年のドラフト4位でロッテオリオンズに入団。1993年7月9日の対西武ライオンズ戦で、1試合4犠打の日本プロ野球タイ記録をマークする。90年代前半は準レギュラー程度の出場機会があったが、その後出場機会が減少し控え要員の時代が続いたが、1998年は108試合に出場し、打数は少ないが打率.320、8本塁打、41打点をマークし、クリーンナップも任された。「右の代打」を長く務めたためか、左投手の攻略を得意としており、特に相手の先発が左投手の場合はスタメンに起用されることも多かった左キラーだが、左投手のボールを逆らうように引っ張って長打にすることも多かった。
2004年に引退。9月21日の対西武戦での引退打席は、同年齢で同じく引退試合となった潮崎哲也から3球目にライトフライを放った。引退後、ロッテのフロントに転身。編成部に所属し、2009年シーズンはロッテと読売ジャイアンツの若手選手から成る連合チーム「シリウス」で、ロッテ浦和球場開催分の監督を務めた。

年度球団試合打数安打本塁打打点盗塁三振打率
1987ロッテ2200002.000
19885100000.000
1989152330206.130
19906600003.000
19916614031013032.221
19925312828412034.219
19938319952215052.261
1994133260308.188
199542671717018.254
1996548820016120.227
1997395212313015.231
199810423174841044.320
19996611326418023.230
20002454170608.315
20019724468831048.279
2002511072616015.243
2003243880506.211
20043048110309.229
通算18年7741573399311911343.254

飯田哲也盗塁王

捕手 拓大紅陵高-ヤクルト 1986年 ドラフト4位

東京都調布市出身。小学校低学年の頃、王貞治や張本勲のプレーに感動してプロ野球選手になる事を決意した。調布市立神代中学校では投手を務め、3年時に市大会で優勝している。都内の強豪である日大三高帝京高への進学も目指したが、中学の野球部顧問と小枝守監督が日大の同級生だった縁もあり、設備や環境に惹かれて千葉県の拓大紅陵高校に入学した。拓大紅陵では同級生に佐藤幸彦(元ロッテ)が、2学年先輩に小川博文(元オリックス・横浜)がいて、学校も野球部の強化に注力していた。入学後は外野手となり、さらに2年になると50m6秒1の俊足と遠投100m以上の強肩という身体能力に注目して捕手にコンバートされた。
1986年の3年次には春夏連続して甲子園に出場。春の選抜大会では本塁打を放ち、守備でも1イニングで3補殺を記録するなど5番・捕手として活躍している。千葉大会決勝では後にヤクルトの同期となる土橋勝征を擁する印旛高を破り、夏の選手権本大会では優勝候補に挙げられるも、3回戦で長谷川滋利(元オリックスほか)を擁する東洋大姫路に0-1で敗退した。同学年の捕手の中では、鷹巣農林高の中嶋聡(現日本ハム)や西日本短大付属高の青柳進(元ロッテ・ヤクルト)と並んで飯田はドラフト指名候補として注目を集めていた。同年のドラフトでヤクルトは中嶋の指名を予定していたが、阪急が3位で中嶋を指名したため直後に4位で飯田を指名し、ヤクルトへの入団が決まった。契約金、年俸はそれぞれ2,800万円、320万円。

年度球団試合打数安打本塁打打点盗塁三振打率
1987ヤクルト
1988
198922910015.111
19901174411236332966.279
1991107298724261551.242
19921255211537423383.294
1993103244532211149.217
19941174581333373054.290
19951305221327313574.253
19961054241236371366.290
19971084211293372643.306
19989628681128935.283
19997212426031122.210
200010219048415741.253
20011051875519631.294
200233581102114.190
20036615641317331.263
200431010104.100
2005楽天5412742015218.331
200640882419213.273
通算20年15054564124848363234700.273