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銚子商業高校出身のプロ野球選手一覧表

澤井良輔

内野手 銚子商業高-千葉ロッテマリーンズ 1995年 ドラフト1位

千葉県銚子市出身。銚子商の主軸として大活躍。3年生時に春夏連続甲子園出場。センバツでは準優勝、夏の甲子園は3回戦敗退。しかし、そのパワーとスター性はプロ級と評判になり、「西の福留・東の澤井」と呼ばれる。また、福留とは交友関係。

1995年、ドラフト会議で、ライバル・福留のハズレ1位としてロッテに指名され入団。当時の背番号は10。2002年、シーズン開幕戦をスタメンで飾る。2004年、1軍出場なしに終わり、背番号を10から32に変更。2005年、2年連続1軍出場なしに終わり、ロッテから戦力外通告を受ける。

年度 球団 試合 打数 安打 本塁打 打点 盗塁 三振 打率
1996 ロッテ
1997
1998 2 2 0 0 0 0 1 .000
1999
2000 9 10 2 1 1 0 3 .200
2001 12 19 5 0 1 0 6 .263
2002 41 68 12 3 8 0 17 .176
2003 26 61 17 2 9 0 11 .279
2004
2005
通算10年 90 160 36 6 19 0 38 .225

八木政義

投手 銚子商業高-阪急ブレーブス 1987年 ドラフト3位

千葉県銚子市出身。銚子商から1987年ドラフト会議で阪急ブレーブスへ入団。1年目の1988年に2試合に登板しただけで、その後は一軍登板が無く、1991年に引退。オリックスではイチローの前に背番号51を付けていた選手である。

年度 球団 登板 勝利 敗戦 セーブ ホールド 投球回 奪三振 防御率
1988 阪急 2 0 0 0 2.0 1 22.50
1989
1990
通算3年 2 0 0 0 2.0 1 22.50

大川隆

内野手 銚子商業高-横浜大洋ホエールズ 1985年 ドラフト3位

茨城県行方市(旧麻生町)。銚子商から1985年に当時の横浜大洋ホエールズに投手として入団。しかし投手登録は1986年のみで、1987年からは100mを10秒台で走る俊足を活かしスイッチヒッターの外野手に転向。当時盗塁王の常連だったチームメイトの屋鋪要を凌ぐ俊足で、「屋鋪・大川の右中間は抜けない」と言われ期待されたが、故障や打撃の非力さでレギュラーになれず、1995年に引退。

引退後は球団スタッフに転身し、2009年9月5日、先発投手のメンバー表にランドルフと書くべきところをライアン・グリンの名を書くトラブルを起こし、リリーフしたランドルフの1試合15奪三振の最多記録を演出する。

年度 球団 試合 打数 安打 本塁打 打点 盗塁 三振 打率
1986 大洋

横浜

1987 2 0 0 0 0 0 0
1988 5 5 2 0 0 1 1 .400
1989
1990
1991 12 15 2 0 0 0 2 .133
1992 28 33 6 0 3 0 12 .182
1993 53 66 14 0 4 6 17 .212
1994 8 3 0 0 0 1 2 .000
1995
通算10年 108 122 24 0 7 8 34 .197

片平哲也

投手 銚子商業高-中日ドラゴンズ 1985年 ドラフト2位

福島県会津若松市。銚子商では1985年夏の甲子園に出場。真上から投げ下ろす速球は威力があり評判は高かったが制球難もあり一回戦敗退。1985年ドラフト2位で中日入団し、2年目から野手に転向。1988年11月本村信吾と共に、片岡光宏・斉藤浩行との2対2の交換で広島に移籍。1992年投手に再転向も現役引退。

年度 球団 試合 打数 安打 本塁打 打点 盗塁 三振 打率
1986 中日
1987 12 28 11 1 10 0 7 .393
1988 5 3 1 0 0 0 0 .333
1990 広島 11 13 3 0 1 0 4 .231
1991
1992
通算6年 28 44 15 1 11 0 11 .341

尾上旭

内野手 銚子商業高-中央大-中日ドラゴンズ 1981年 ドラフト1位

千葉県旭市出身(旧飯岡町)。銚子商業高から中央大学へ進学。東都大学リーグ通算108試合出場、394打数105安打、打率.266、14本塁打、43打点。ベストナイン1回。1981年ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団。
高校時代は1977年遊撃手として春のセンバツに出場、大学時代は1981年全日本選抜メンバーに選出された。

中日では巧打と堅守を誇る即戦力内野手との評価を受けるも内野守備・代走要員としての起用にとどまる。1987年11月に近鉄バファローズに移籍。1991年現役引退。

年度 球団 試合 打数 安打 本塁打 打点 盗塁 三振 打率
1982 中日 50 65 14 1 9 2 17 .215
1983 57 67 15 2 5 1 14 .224
1984 57 43 8 1 10 2 9 .186
1985 81 70 14 0 3 4 6 .200
1986 70 96 17 1 5 1 14 .177
1987 18 9 1 0 0 0 4 .111
1988 近鉄 15 15 4 0 1 0 4 .267
1989 1 2 1 0 0 0 0 .500
1990 13 10 3 0 0 0 1 .300
通算9年 362 377 77 5 33 10 69 .204

宇野勝本塁打王

内野手 銚子商業高-中日ドラゴンズ 1976年 ドラフト3位

千葉県匝瑳市出身(旧八日市場市)。銚子商業では1976年の甲子園に遊撃手として出場。中日ドラゴンズのスカウトが甲子園で三遊間の深い位置に転がったゴロをさばいて強肩で打者走者を刺した守備力を評価して、同年のドラフトで3位指名したという話がある。同じ学年の神奈川・東海大相模の原辰徳三塁手から電話で『東海大学で三遊間を組もう』と誘われたが、家が裕福でなかった宇野は、原より先にプロで金を稼がせてもらおうという理由で中日ドラゴンズに指名を受けて高校からプロ入りに踏み切ったと言われる。

プロ入り3年目の1979年からレギュラーとして定着。1981年8月26日の対読売ジャイアンツ戦で、7回裏の守備の際に山本功児の打った飛球を捕ろうとしたところ、目測を誤ってボールを頭部に当てる伝説の珍プレーは有名な話。自身の1シーズン最多本塁打は1985年の41本塁打で、遊撃手のシーズン本塁打としては最高。

また、中日時代に打った334本塁打も球団史上最多記録。1992年、シーズン前に目標を聞かれ、「3割、30本、3盗塁」とテレビカメラの前で宣言。しかし、立浪和義・種田仁・前原博之との競争に敗れ、また高木守道監督との確執もあり、オフに地元球団の千葉ロッテマリーンズにトレードで移籍。1994年オフ、成績不振・出場機会減少によりロッテから戦力外通告受け現役を引退。

年度 球団 試合 打数 安打 本塁打 打点 盗塁 三振 打率
1977 中日 2 0 0 0 0 0 0
1978 26 48 10 3 7 1 14 .208
1979 122 359 95 12 37 4 74 .265
1980 121 408 100 12 44 3 71 .245
1981 128 429 121 25 70 6 85 .282
1982 125 446 117 30 69 4 91 .262
1983 129 457 123 27 64 9 97 .269
1984 130 458 116 37 87 13 117 .253
1985 130 486 133 41 91 5 98 .274
1986 83 308 65 10 26 7 71 .211
1987 130 471 127 30 80 9 75 .270
1988 130 465 129 18 76 8 78 .277
1989 119 437 133 25 68 2 82 .304
1990 119 454 131 27 78 4 105 .289
1991 125 428 102 26 74 2 112 .238
1992 110 335 80 11 52 1 86 .239
1993 ロッテ 59 166 30 3 9 0 43 .181
1994 14 33 8 1 4 0 7 .242
通算18年 1802 6188 1620 338 936 78 1306 .262

篠塚利夫(篠塚和典)首位打者

内野手 銚子商業高-読売ジャイアンツ 1975年 ドラフト1位

千葉県銚子市出身。銚子商2年生時に春夏と甲子園に連続出場し、夏の大会ではチームの優勝に貢献。その後、湿性肋膜炎にかかり一時は野球生命まで危ぶまれたものの、当時の巨人監督だった長嶋茂雄に見込まれ、1975年のドラフト1位で読売ジャイアンツに入団。1980年に二塁手としてシーズン通して出場。翌年の1981年当初はルーキーの原辰徳が二塁を守ったため出場機会が減少したが、三塁手のレギュラーであった中畑清の故障により原が三塁に回り、以後は篠塚が二塁手のレギュラーに定着。

華麗なバットコントロールと巧みな守備で鳴らし、シーズン打率3割以上を5年連続も含めて7回記録。通算打率も3割を超えている。1981年は藤田平(阪神)と首位打者争いし、わずか1厘差でタイトルを逃すものの現役最高の打率を記録。1984年には自身初の首位打者を獲得。1987年にも正田耕三(広島)と共に2度目の首位打者を獲得。主力選手としてチームの6度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献。持病の腰痛もあり晩年は代打での起用が主となり、1994年に現役を引退。

年度 球団 試合 打数 安打 本塁打 打点 盗塁 三振 打率
1976 巨人
1977 18 24 5 0 0 0 4 .208
1978 3 7 2 0 2 0 2 .286
1979 76 90 25 0 10 1 14 .278
1980 115 315 82 6 31 6 31 .260
1981 116 412 147 7 45 2 39 .357
1982 124 467 147 7 67 5 32 .315
1983 115 424 130 13 56 10 42 .307
1984 126 461 154 12 66 7 49 .334
1985 122 466 143 8 54 6 45 .307
1986 128 485 141 8 43 3 54 .291
1987 115 429 143 7 49 4 52 .333
1988 116 414 131 6 58 2 31 .316
1989 119 461 134 4 38 5 38 .291
1990 71 232 66 5 29 1 27 .284
1991 97 289 77 3 23 1 49 .266
1992 67 241 64 0 21 2 35 .266
1993 66 208 70 4 23 0 21 .337
1994 57 147 35 2 13 0 15 .238
通算19年 1651 5572 1696 92 628 55 580 .304

土屋正勝

投手 銚子商業高-中日ドラゴンズ 1974年 ドラフト1位

千葉県旭市出身。銚子商では1年秋からエースで1973年春から4期連続で甲子園に出場。オードソックスなフォームから投げ下ろす本格派投手として、早くから注目されていた。1973年の選手権では、2回戦で作新学院の江川卓に延長11回の末投げ勝ち、ベスト8に進出。翌1974年の選抜でもベスト8。同年の選手権では圧倒的な強さで見事全国優勝を成し遂げる。

同年秋のドラフトでは高校生の目玉として注目を集め、中日ドラゴンズの1位指名を受けて入団。入団後も度々肘や肩の故障に苦しみ、全盛期の球威が復活することは遂に無かったが、リリーフ・中継ぎとして息の長い活躍を見せた。1984年にロッテオリオンズに移籍。1986年5月10日の試合には1球で勝利投手になった。この年のシーズン終了後に現役を引退した。

年度 球団 登板 勝利 敗戦 セーブ ホールド 投球回 奪三振 防御率
1975 中日 14 0 1 0 39.2 22 4.28
1976 8 0 0 0 11.2 6 8.25
1977 9 0 1 0 20.1 7 5.40
1978 16 0 2 0 38.2 12 7.38
1979 32 2 6 0 104.0 43 4.76
1980 28 1 4 0 61.0 39 4.87
1981 23 1 0 0 33.0 16 1.91
1982 13 0 0 0 15.1 5 3.00
1983
1984 ロッテ 29 0 3 1 62.2 32 5.31
1985 33 2 2 0 89.2 43 4.72
1986 36 2 3 2 41.0 19 4.61
通算12年 240 8 22 4 517.0 244 4.86

根本隆

投手 銚子商業高-日本石油-大洋ホエールズ 1974年 ドラフト1位

千葉県銚子市出身。銚子商時代に1972年の選抜ベスト4進出の原動力となり注目される。同校卒業後は日本石油に入社し主戦投手を務める。速球と鋭いカーブを武器に1974年にドラフト1位で入団したものの期待通りの活躍はできなかった。1978年オフ、交換トレードで西武に移籍した。

年度 球団 登板 勝利 敗戦 セーブ ホールド 投球回 奪三振 防御率
1975 大洋 4 0 0 0 4.2 3 3.60
1976 34 3 7 1 116.0 69 3.96
1977 21 2 2 0 47.2 29 6.56
1978 18 1 2 0 33.0 19 7.64
1979 西武 8 0 1 0 13.1 4 7.62
1980 9 0 1 0 13.2 9 6.43
1981 9 1 0 0 16.2 8 2.65
1982 5 0 1 1 6.2 6 3.86
1983 2 0 0 0 4.2 0 0.00
1984 3 0 0 0 4.1 1 4.15
通算10年 113 7 14 2 260.2 148 5.08

町田公雄

外野手 銚子商業高-元日本石油- 阪神タイガース 1974年 ドラフト5位

千葉県銚子市出身。銚子商から日本石油野球部に進み、全日本入りも果たした。1974年のドラフト5位で阪神タイガースに入団。1976年にプロ初出場、翌1977年には46試合に出場したものの、1978年は出場が無く退団した。打撃を期待されたが、守備が課題で代打での出場がほとんどだった。

年度 球団 試合 打数 安打 本塁打 打点 盗塁 三振 打率
1975 阪神
1976 39 54 10 0 1 1 9 .185
1977 46 45 10 1 2 1 12 .222
1978
通算4年 85 99 20 1 3 2 21 .202

渡辺進

内野手 銚子商業高-ヤクルトアトムズ 1970年 ドラフト4位

千葉県銚子市出身。銚子商から1971年ドラフト4位でヤクルトアトムズに入団。内外野問わず守れるユーティリティ選手として活躍。1980年に二塁手としてレギュラーに定着する。後に、三塁手と一塁手を務める。しかし、広澤克実が入団してからは出場機会が減っていき、1987年に現役引退。

年度 球団 試合 打数 安打 本塁打 打点 盗塁 三振 打率
1971 ヤクルト
1972 8 16 4 1 1 0 6 .250
1973 8 4 0 0 0 0 4 .000
1974 13 13 0 0 1 0 4 .000
1975 20 25 4 0 0 0 7 .160
1976 84 177 40 4 15 1 37 .226
1977 91 225 46 8 26 7 52 .204
1978 61 114 22 4 17 1 24 .193
1979 17 40 4 0 0 0 12 .100
1980 87 269 68 11 35 3 54 .253
1981 125 404 108 16 57 5 68 .267
1982 112 331 70 11 35 0 54 .211
1983 118 381 106 19 45 3 56 .278
1984 121 391 110 9 53 3 73 .281
1985 107 274 76 8 34 1 54 .277
1986 50 73 18 2 8 0 21 .247
1987 36 24 1 0 1 0 9 .042
通算17年 1058 2761 677 93 328 24 535 .245

杉山茂

捕手 銚子商業高-読売ジャイアンツ 1968年 ドラフト6位

千葉県銚子市出身。銚子商から1968年ドラフト6位で読売ジャイアンツ入団。主に森昌彦、吉田孝司に次ぐ3番手の捕手として起用された。しかし、山倉和博の入団により出場機会が激減し1982年限りで現役を引退。引退後は巨人のトレーニングコーチ、バッテリーコーチ、スコアラなど裏方で活躍している。

年度 球団 試合 打数 安打 本塁打 打点 盗塁 三振 打率
1969 巨人
1970
1971 2 0 0 0 0 0 0
1972
1973 1 1 0 0 0 0 1 .000
1974 2 0 0 0 0 0 0
1975 13 10 2 0 0 0 2 .200
1976 1 0 0 0 0 0 0
1977 30 51 14 0 7 1 4 .275
1978 6 6 1 0 0 0 0 .167
1979
1980 3 2 0 0 0 0 1 .000
1981
1982
通算14年 58 70 17 0 7 1 8 .243

市原明

内野手 銚子商業高-東京オリオンズ 1968年 ドラフト13位

千葉県佐原市出身。右投右打。銚子商では三塁手、七番打者として1968年の春の甲子園に出場。準々決勝へ進出するが倉敷工業に敗退する。また、この試合ではリリーフとして甲子園初登板を果たす。同年夏の千葉県予選でも決勝戦に進むが、千葉商業に敗れて準優勝。高校の同期生に杉山茂、町田公雄がいる。

その後、1968年ドラフト会議で東京オリオンズから13位指名を受けて入団。1970年にはジュニアオールスターに出場するが、一軍ではあまり出場機会に恵まれなかった。1971年の第2回トレード会議の対象となり、指名を受けた阪急ブレーブスへ移籍。1973年限りで引退。

年度 球団 試合 打数 安打 本塁打 打点 盗塁 三振 打率
1969 ロッテ
1970
1971 2 0 0 0 0 1 0
1972 阪急
1973
通算5年 2 0 0 0 0 1 0

木樽正明最多勝最優秀防御率

投手 銚子商業高-東京オリオンズ 1965年 ドラフト2位

千葉県銚子市出身。銚子商業高校3年の時、1965年夏の甲子園大会で準優勝。卒業後は早稲田大学への進学希望で、入団には難色を示していたが、青木一三スカウトの説得で翌年の1月に入団。杉下茂、堀本律雄のつけた背番号20を受け継ぎ、速球と切れのいいシュートを武器に入団1年目から主力投手として活躍。

1968年は故障で0勝1敗の成績で終わり、野手転向も検討されたが、1969年にはリリーフで15勝をマークし、パ・リーグ最優秀防御率のタイトルを獲得。1970年には先発に転向し、21勝をマークして同年のリーグ優勝に大きく貢献、MVP・ベストナインのタイトルも獲得した。翌1971年も24勝をマークし、最多勝に輝く。1974年の日本一にも貢献し、成田文男、金田留広、村田兆治とともに四本柱を形成した。その後は持病の腰痛に苦しみ、1976年に29歳で現役引退。

年度 球団 登板 勝利 敗戦 セーブ ホールド 投球回 奪三振 防御率
1966 ロッテ 17 3 8 78.0 32 3.00
1967 44 8 8 146.0 90 2.53
1968 5 0 1 14.1 11 5.79
1969 51 15 9 162.0 70 1.72
1970 42 21 10 278.0 161 2.53
1971 47 24 8 266.0 168 3.45
1972 37 9 7 123.0 78 3.88
1973 44 14 7 165.1 88 2.84
1974 36 13 6 2 201.0 85 3.09
1975 30 5 14 1 140.2 44 3.96
1976 14 0 2 0 35.2 14 5.50
通算11年 367 112 80 3 1610.0 841 3.05

阿天坊俊明

内野手 銚子商業高-南海ホークス 1965年 ドラフト2位

1965年、銚子商業高3年の時、夏の甲子園では遊撃手としてエース・木樽正明と共にチームの準優勝に貢献した。同年秋の第1回ドラフト会議で南海ホークスより2位指名を受けるも入団拒否し、立教大学に進学する。入学後すぐの1966年春季リーグ戦では、リーグ三冠王の槌田誠,小川亨,谷木恭平,秋山重雄らと共に「2番・遊撃手」として立大の13季ぶりの優勝に貢献した。

大学卒業後は、1970年から新日本製鐵室蘭でプレー。その後、郷里の銚子市に帰り、実家の干物商「干物工房・あてんぼう」を引き継ぎ、代表取締役に就任する。また、地元のシニア野球チーム「銚子シニア」の会長も務めた。

年度 球団 試合 打数 安打 本塁打 打点 盗塁 三振 打率
備考 入団拒否
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