暁星国際高校出身のプロ野球選手一覧表

相川良太

内野手 暁星国際高-東海大-オリックス 1998年 ドラフト3位

福岡県福岡市出身。小学3年生の時に野球を始め、中学時代は福岡中央シニアで遊撃手兼投手としてプレー。暁星国際高では1年から三塁手のレギュラーとなり、3年の時は内野手兼投手としてプレーするが3年夏は5回戦で敗退し甲子園出場はならなかった。高校卒業後、東海大学へ進学。2年春には遊撃手のレギュラーとなり、2年秋には首位打者のタイトルを獲得するなど、リーグ戦通算63試合出場、220打数69安打、打率.314、33打点。ベストナイン3回。1998年のドラフト会議においてオリックスから3位指名を受け入団。

年度球団試合打数安打本塁打打点盗塁三振打率
1999オリックス2200002.000
2000
20016210626414426.245
20026417035523341.206
200322531837011.340
20044912835315425.273
2005173890308.237
200665175451126149.257
2007132430006.125
2008102042606.200
2009102060105.300
2010
通算12年314736181289512179.246

小笠原道大首位打者本塁打王打点王最多安打最高出塁率

内野手 暁星国際高-NTT関東-日本ハム 1996年 ドラフト3位

千葉県千葉市出身。7歳から野球を始め、千葉西リトルリーグでプレーする。 高校進学後に二塁手にコンバートされ、翌1990年にはチーム事情から捕手を兼ねる。2年生の時には同期のエース北川哲也を擁し、二塁手、五番打者として1990年夏の千葉大会決勝に進むが、成田高に敗れ甲子園出場を逸する。高校通算本塁打は2本で県内でも無名だった。

卒業後はNTT関東に入社。沖原佳典とともに中心打者として活躍し、後に日本ハムでも同僚となる立石尚行とバッテリーを組む。1996年の第67回都市対抗野球に、沖原、立石とともに新日鐵君津の補強選手として出場。JR東海との1回戦では二番打者として起用され、3本の二塁打を放つなど活躍、立石、森慎二らの完封リレーで勝ち上がる。ヤマハとの2回戦でも勝ち越しの本塁打を放ち、準々決勝に進むが朝日生命に敗退した。この時のチームメートに四番打者の松中信彦がいる。1996年ドラフト会議で日本ハムファイターズから3位指名を受ける。入団会見では「首位打者を取れるような打者になりたい」と宣言した。

年度球団試合打数安打本塁打打点盗塁三振打率
1997日本ハム44942107110.223
199871862619117.302
19991355471562583384.285
2000135554182311022491.329
200114057619532861102.339
20021354861653281877.340
200312844516031100865.360
20041013771301870370.345
200513351414537922114.282
200613549615532100485.313
2007巨人1425661773188498.313
200814452016136960105.310
2009139514159311072107.309
201013751015734901101.308
20118328168520166.242
201234921404022.152
2013223691807.250
2014中日818325118016.301
201553511508010.294
通算19年1992682821203781169631247.310

北川哲也

投手 暁星国際高-日産自動車-ヤクルト 1994年 ドラフト1位

東京都江戸川区出身。暁星国際高には、同校が野球部の強化を始めた時期の1期生として入学。エースとして臨んだ2年夏の千葉県大会では決勝戦で成田高に敗れた。高校時代は小笠原道大とバッテリーを組んでいた。高校卒業後は日産自動車に入社。同僚の川尻哲郎らとともに活躍し、1994年の第21回社会人野球日本選手権大会では準優勝に貢献し、敢闘賞を受賞した。キレのある145km/hの速球とスライダー、ナックルボールが武器。同年のドラフト会議前にヤクルトスワローズの逆指名を表明。

ドラフトではヤクルトが1位指名で交渉権を獲得し契約金1億円、年俸1200万円で入団合意。入団1年目から中継ぎなどで登板したが、1997年オフに脱税行為をしていたことが発覚し在宅起訴される。判決公判で懲役10月、執行猶予3年、罰金350万円の有罪判決が言い渡され、コミッショナーからは1998年の開幕日から4週間の出場停止と制裁金70万円の処分を受けた。

1998年5月23日の対中日ドラゴンズ戦でプロ初勝利を挙げるが、相手の星野仙一監督は「おれの晩年のようなスピードの投手を打てなきゃ勝てん」、自軍の野村克也監督は「オールチェンジアップや」というなど、球の遅さが強調されるコメントだった。8月25日の対広島東洋カープ戦で初の完投勝利を挙げた。1999年は登板機会がなく同年限りで戦力外通告を受け、千葉ロッテマリーンズの入団テストを受けるも不合格に終わり現役を引退した。

年度球団登板勝利敗戦セーブホールド投球回奪三振防御率
1995ヤクルト20103.029.00
1996900012.1812.41
199720002.019.00
19982344180.0443.83
1999
通算5年3645197.1555.18